突然ですが、この記事をお読みいただいているあなたには、やりたいことはありますか?
先日、ちょっとした用事で妹と会った時に、
「お姉ちゃんのブログは、なんか、人生にわがままでもいいって思わせてくれるんだよねー」
と言ってもらえました。
※妹は私のブログをいつも読んでくれています。
確かに、このTapioca Milk Recordsは、まだあまり知られていない、
素敵な音楽を紹介するという目的のほか
裏テーマとして、自分のやりたいことを突き詰めるということがあります。
それは極端すぎるくらい極端で、わがままで妥協がなく
趣味に走りまくっています。
そして、確かにそこに嘘はないな、と思ったのでした。
有名な成功者の方はよく、やりたいことをやれと言います。
1年前までの私だったら確実に、
「いや、それはあなたが成功した今だから言えるんだよ…」と思っていました。
私は、成功者なんて言えない、ただの普通の人です。
だからこそ、ごく普通の人の立場から提案します。
「普通の人こそ、やりたいことに猪突猛進になりませんか?
すっごくおもしろいですよ!」
って。
今日の記事は、すでに何かしら、やりたいことをやっている人は読む必要がありません。
時間の無駄です。そのままやりたいことをやってください。
しかし、もし、やりたいことがあるのに、一歩も踏み出せない人がいるとしたら
後悔してほしくないので、この記事はぜひ最後までお目通し頂きたいです。
前回までのあらすじ
たくさんの方の手助けのお陰でインディーズバンドを追いかけることに成功した私は
ぼーっと考えていた。
「私にできることってなんだろう」
「高校生の時は英文科だったよね。英語のコミュニケーションの授業好きだったな。」
「ていうかホント、留学したかったけど家の都合でできなかったなぁ…」
「もう、いわゆる海外人材にはなれないのかも。だって、学歴も低いし、病気したし、体も弱いし。いまさら。」
高校を卒業してからもう約10年が経っていたから、
才能も可能性も無いかもしれない。
だけど、「日本と海外の間に立って、人の役に立つ」というテーマならかろうじて叶えられる可能性がある。
それなら、どんなに小さな一歩でもいい、踏み出してみようと
決意をした。
タピオカこぼれ話♪その7 やりたいことがあるのに、一歩も踏み出せなかった私へ。
少し過去にさかのぼるけれど、10年前、高校生の頃、大病を患った時に思った。
「こんな狭い無菌室の中では絶対死ねない。もっと、広い世界を見てから死ぬ」
そういう意思を持って治療に取り組み始めた日のことを覚えている。
そして私は運よく病に勝って、東京へ出て、就職をした。
これまで数社の転職を経験した。
そこにはいつだって良くしてくれた大人たちや
どんなに状況や立場が悪くなっても気にかけてくれる人たちがいた。
それでも、いつも本当の居場所はここでないような、虚しさを少しだけ抱えていた。
草東のライブから帰ってきてから、
私はいつもやりたいことや、できることは何か?とぼーっと考えていた。
せっかく生まれてきて、病気に勝った命を使うなら、
何かしら人の役に立ちたいという想いがあった。
しかし、苦手なことでは人の役に立ちようがない。実害を出すだけだ。
得意なことを生かして、人の役に立ちたい。
しかし、数年間の会社員生活を経て
これまでやってきたことには得意でずばぬけられることはもう見つけられないのだと
どこかしら違和感があった。
では、海外市場ならどうだろう?
まだ、可能性があるかもしれない。
本当は数年くらいかけて語学留学とかしたいけど、年齢的にちょっと厳しい(当時28歳)。
だったら、留学ではなく、お金を稼ぐ方向にいけばいいじゃん!と思ったのだった。
そして、香港への転職を目指して数か月の活動をした。
更にスーパーコネを使わせてもらったにもかかわらず、
それでも失敗をした。
語学力不足だった。
(香港での一枚。)
もうやめていいんじゃないか、
やっぱり無理だったんだよ。海外人材なんて。
と、内なる弱い自分が囁く。
年齢は上がり、そろそろ29歳になろうとしていた。
もう若くない。
雲行きはどんどん怪しくなっていく。
でも、ここであきらめるとしたら、私は、何のために生きているのか。
自分の心の叫びを正確に聞き取り、行動に移せるのはかけがえのない自分だけだ。
他人や世界はコントロールできないが、自分の行動はいくらでも変えていける。
確かに、香港への転職は大きすぎる目標であって、
身の丈に合わなかったかもしれない。
だけど、日本にいてもできることがいくらでもある。
そう思った私は、迷わずオンライン英会話と中国語会話に申し込みをした。
どんなに夜遅くなっても、
1日30分のレッスンをこつこつと約3か月間続けた。
また、インプットだけでなく、人の役に立つアウトプットをしようと考えた。
私の地元、藤沢市は2020年の東京オリンピックのセーリングの開催地でもあり、
海外のお客さんが多くなることが目に見えているにも関わらず
あまり準備が整っていないよなぁ…と感じていたので
よくご飯を食べに行くお店に売り込みをし、英語と中国語のメニューの作成をさせていただいた。
台湾関係の仕事がありそうな企業への転職活動もした。
しかし、履歴書を送っても返事がもらえなかったり、
普通に書類選考に通過できなかったり、
あるいは面接までこぎつけたけどいざ行ってみたところ
「思いのほか遠い」という理由で辞退をしたりした。
このように、思いつく→行動→反省→次の行動に生かすというサイクルを
とにかく短期間でやっていった。
一つ一つの経験は成功か、失敗かでいうと失敗がはるかに多く、
思い出すと「やめときなよ、それ」って言いたくなる。
だけど、行動する前の自分とは全く違う自分になっていった。
やりきってしまえば、もうそこに未練は無くなる。
笑顔でリングから降りられる。
そんなある日、ふとブログのアクセス解析を見ると
前回確認したときの約3倍の、1日50人以上の方が訪れてくれていることがわかった。
(何が起きているのだろう。コワイ)と詳しく調べてみたところ、
バセドウ病シリーズの記事へのアクセス数がトップを、
そして、おすすめ台湾音楽10選の記事がトップ2になっていることもわかった。
大手ブロガー様たちから比べてみれば、50アクセスで喜ぶのは勘違いも甚だしいかもしれない。
でも、私にとってはとても大きな数字だった。
結局、私にできることは、いつも触っているパソコンの中にあった。
そして更に、自分と向き合ったところ
「まだ日本で知られていない音楽を広めたい」という
強い気持ちがあることに気付いたのだった。
私にとって文章を書くことは好きで、ストレスの無い行為だ。
また、音楽を聴いて、それを私なりに言葉にしていく行為も好きだ。
私は欠けているところがとにかく多い人間だからこそ、
情報発信×音楽を聴くこと×台湾×ブログみたいなところに、
ようやく役割を見つけられたのだった。
そこからは本当に行動が速かった。
まずはブログに新しい名前をつけることにした。
私自身が大好きで、台湾名物のタピオカミルクティーのように
多くの人に愛されるブログになってほしいという願いを込め、
「Tapioca Milk Recrods(珍奶茶唱片)」が良いのではないかと思った。
更に、友人に頼み込みTapioca Milk Recordsのロゴを書いてもらった。
このロゴは本当に大好きで、先日発注した名刺にも載せてしまった。
ちなみに、私が当初のデザイン案はコレである。
悪いけど、中学から高校まで、美術の成績は3以上を取ったことがない。
ひどいものである。この線画を素敵なロゴにしてくれた友人に頭が上がることはもうない。
そして、2017年12月30日、私はこのブログに「Tapioca Milk Records」という
新しい名前をつけて再スタートを切った。
その時の気持ちは、これまでの行動とは何かが違っていた。
やりたいことを見つけたり、思い出したりして、そのままにしておくのは簡単で、楽でいられる。
今日と同じ明日が保証され、傷つくこともない。
でもそれって、「もっと若かったら、もっと違う道があったのに」という、
自分の中の悪魔を残すことになる。
そんな悪魔のささやきにつきまとわれる毎日に、私はもう耐えられない。
起きちゃったことはもう変えられない。
大学に行かなかったことも、病気がちだった人生も、勉強不足だったことも
もう取り返しがつかない。
だけど、人生の中で一番若いのは今日だけだ。
やりたいことに、一歩も踏み出さなかった2年前までの私へ。
やれよ。
次回、最終話。「タピオカこぼれ話♪最終話」へ続きます。